カテゴリー別アーカイブ: 3b.世界一周ノート

3b. 世界一周ノート 第31回:エジプト-その2


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

Profile
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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

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3b. 世界一周ノート 第31回:エジプト-その2

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ピラミッドまではホテルからローカルミニバンを乗り継いで向かった。言葉は全く通じなかったけれど、手で三角形を作るとすぐに話は通じた。ホテルや客引きに言われたツアーの価格からすればかなり安上がりにピラミッドまで辿り着けた僕は、地図も情報もない中で少し達成感で浮かれてしまっていた。
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本当にピラミッドの前にあったKFCのルーフトップに腰を下ろすと、目の前に広がる光景は嘘のようで、それでも砂漠は強い太陽光を浴びてゆらゆらと蜃気楼を生んでいた。
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チキンを食べ終えて、僕は入場ゲートへと向かった。
バンコクで手に入れた学生証を見せて入場料を支払うと、すぐにガイド客引きが寄って来た。僕は敷地内を自分で歩いて周るつもりだったのだけれど、「馬に乗せてやる」という言葉が妙に引っかかり、気付けば馬に乗って砂漠を走ることになっていた。料金は700円。交通費を節約できたことが僕を乗馬へと駆り立てた。
人気のない砂漠(既にこのあたりで何かおかしい)を馬に乗って駆けると、気持ちが良かった。通常とは逆のアングルでピラミッドを見ることもでき、ガイドのおじさんも親切だった。
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ある程度写真を撮り終えるとおじさんが豹変した。「俺は親切だ。楽しんだだろ?特別な時間だっただろ?」と質問を浴びせてきた。曖昧に返事を続ける僕に、ついにおじさんは「チップ」をよこせと言った。砂漠のど真ん中だった。
僕は灼熱の砂漠のど真ん中でおじさんを拒んでいた。「700円と言ったはずだ!」と。するとおじさんは「馬は1匹700円だ。俺のと合わせて1400円だ」と言った。そしておじさんは「払わなければこの場で降ろす」とも言った。どこだかわからないピラミッドの裏手の砂漠で一人になってしまう恐怖たるやなかったけれど、僕は売り言葉に買い言葉で「ここで降ろしてくれ!」と言った。おじさんは呆れ果て、馬を急いで走らせて、僕をピラミッドの麓の日陰に連れて行った。そして長い押し問答が始まった・・・
どれくらい経ったろうか。ピラミッドの麓で僕らは不毛なやり取りをしていた。思えば自分がケチっているのは700円で、そのために随分と長い時間変なストレスを受けている。そう考えるとどうでもよくなって、僕は根負けし、おじさんに1500円を払った。僕からすれば寛大にチップを付けたつもりでいたけれど、おじさんは「これじゃあ足りない」と言った・・・エジプト人!
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おじさんに別れを告げて、僕は1人ピラミッドの周りを歩き出した。皆、観光客は楽しそうに写真を撮ったりしていた。僕はと言えば、2000円にも満たない金額のことで凹んでいた。この旅を始めてからこんなみじめな気持ちの連続のような気がした。だからせめて陽気に振る舞おうと、スフィンクスの前ではしっかりとポーズをとった。
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エジプトを出国し、いよいよ僕はアフリカ大陸南部へと向かった。ビザの関係、流行中のエボラ出血熱、何より時間がなかったため、いっきに南アフリカへと僕は飛んだ。
世界最大のパワースポット、ピラミッドを詣でた割に僕の運気はだだ下がりで、トランジットのエチオピアでは運搬中にバックパックから小銭入れを盗まれた。荒んだ気持ちのまま、僕は遂に世界一の犯罪都市、ヨハネスブルグへと辿り着いた。
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次回、ケープタウン喜望峰、最南端へ。を記します。


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3b. 世界一周ノート 第30回:エジプト


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
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3b. 世界一周ノート 第30回:エジプト

モロッコからエジプトへ、アラブ圏最後の国へと僕は飛び立った。
思えばトルコに入ってからその香りは日に日に濃くなっていった。アジア・オセアニアで中国が繁栄するように、ヨーロッパ・アフリカではアラブ人がその役割を担っているかのようだった。そして両者に共通しているのはエネルギッシュで商売上手という点だった。

飛行機
エジプト・カイロの空港のゲートを出た時に、僕を見ていきなり「今日のバスは終わった、タクシーしかない」とドライバーが声をかけてきた。僕は一旦ドライバーを撒いて外に出た。暑かった。7月の終わりのカイロの熱気は静まらず、飛行機で冷えた体はすぐに汗を吹いた。空港からバス停までは循環バスが出ていて、僕は誰も居ないその停留所で不安になりながら循環バスを待った。ふと通りかかった人に「バスは終わってしまったの?」と聞くと、「ここで待っていれば来る」と教えてくれた。怪しさと親切が共存するアラブ圏を象徴する様な10分間だった。

市内へのバスに乗り、1時間くらいで安宿エリアに着いて迷っている僕に、旅史上最も怪しいおじさんが声をかけてきた。中年小太り、金のアクセサリーを全身につけてNBAのレプリカジャージ(シカゴ・ブルズのジョーダンのアウェイモデル)をまとったそのおじさんは「ホテルまで連れて行くからホテルの名前を教えろ」と言った。僕はホテルの名前を告げると、おじさんは颯爽と歩き出した。夜も遅かったため、助かったと思った僕がおじさんについて歩くこと20分、結局ホテルは見つからなかった。おじさんは挙げ句、そのホテルは満室だから日本人がたくさん居るホテルを紹介するからついて来いと言った。嫌がる僕とおじさんは結局一緒になって迷いながらなんとかホテルを見つけ出した。チェックインした別れ際、おじさんは僕の明日の予定を詳しく聞いてきた。起きる時間や食事の時間まで聞いてきた。僕は適当にあしらって「10時くらい」と言っておじさんと別れた。

翌朝、昼過ぎにロビーに出るとおじさんが同じ格好で僕を待っていた。多分、2時間以上待っていた。それでもおじさんは笑顔でおはようと言って、ピラミッドのツアーや砂漠のラクダツアーをすすめてきた。僕が高額なそのツアーをやんわりとことわると、おじさんは僕を昼食に誘った。僕はそれもことわって部屋へと退散した。1時間後、ロビーにおじさんが居ないことを確認して僕はやっと散歩に出ることができた。

カイロはアラブの春や度重なるクーデターで、雰囲気は穏やかではなかった。ツタンカーメンの展示があるエジプト考古学博物館の入場口は、反政府組織の財宝強奪事件への警戒のため仰々しい警備が行われていた。僕のホテルの近くでも戦車や軍人が至る所でバリケードを張ったりしていた。どれだけ街が日常的に動いていても、そういった緊張だけは確かに伝わってきていた。
博物館前のバリケード
博物館

ある朝、僕がピラミッド観光に出ようとすると、ばったりおじさんに会ってしまった。おじさんは僕をカフェに誘い、僕は仕方なくおじさんとお茶をした。おじさんの正体がそこで明らかになった。おじさんは元軍人で、日本が好き。現在は情勢の不安定なカイロで極秘任務として日本人を護衛するように国からの指令が出て動いている。国防省のIDも持っている(見せられた)。諜報員の証の鷲の刺青も入っている(見せられた)。
おじさんは馴染みのカフェでお茶をごちそうしてくれ、僕たちはまた一緒に街を歩いた。軍人のバリケードの前を通る度に、自分は国の人間だとでも言わんばかりに軍人に大声で話しかけ、ぽかんとされていた。そして僕を雑居ビルに連れていき、またツアーの紹介や置物、絵画、最後にはよく判らないローションを僕に売ろうとした。
結局僕は何も買わずにおじさんと別れた。そしておじさんとはそれが最後だった。
カフェ

その後、エジプトを訪れた人で似た様な経験をしたという人がいた。詳しく聞くと同じおじさんではないことが判ったけれど、僕はエジプトの怪しさを確信した。そしてアラブ圏で最も怪しい国エジプトと僕の戦いはまだまだ続く。

次回はエジプト後編、ピラミッドで揉める!を記します。


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3b. 世界一周ノート 第29回:モロッコ


3b. 世界一周ノート 青木大地

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3b. 世界一周ノート 第29回:モロッコ

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ジブラルタル海峡をフェリーで渡ると、何だか少し太陽に近づいたような錯覚があった。それは海が近いからでも、港が近いからでもなくて、本当に南へと向かったからだった。

スペイン南部から既に顔を覗かせていたアラブ系の人々の表情が、より柔和に、白く立ち並ぶ家々の間に、表通りを埋め尽くすカフェの間に現れていた。僕は港町タンジェの中心地でバスを降り、タバコを買ってカフェに入った。
モロッコの物価は安かったし、ローカルのカフェの居心地も抜群だった。それは冷た過ぎず、温か過ぎず、程よい好奇の視線を受けるという、旅人独自のわがままな価値観に沿った居心地ではあったけれど、その親しみやすさは紛れもなく本当だった。
僕は平日の昼間からカフェテラスでチェスに興じる人たちを横目に、次の目的地を案じた。何となく、急ぎたいような気がして、僕はモロッコで許された時間を使って目一杯移動してみることにした。
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タンジェの町にはとどまらず、僕はその日のバスでフェズという旧市街が有名な街を目指した。
モロッコで旧市街はメディナと呼ばれ、石造りの家々が並ぶ迷路のような構造が特徴的な、モロッコを象徴する場所だった。メディナはモロッコのどの都市にもあって、それは何れも人間の生活感が剥き出しになった混沌とした雰囲気を醸し出していた。同時に観光地としての役割も大きく、安宿や客引きもそこに集まっていた
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メディナを歩いて、屋台で食事を買って、モスクを眺めて散歩をすると、僕にアフリカ大陸に居る感覚は微塵もなかった。ただただ、アラブ圏という大陸を跨いで分散する人々の力強さに圧倒されていた。
メディナで迷うと道案内をすると言ってたくさんの客引きが群がってきた。断ると「迷うぞ、帰れなくなるぞ」なんて脅されたりした。
炎天下の中、丘の上から見下ろしたメディナは人間の営みを生々しく具現化した怪物のようで少し怖かった。
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泥の集落、アイット・ベン・ハドゥは気になっていた場所で、強行スケジュールの中で僕は訪れた。
ローカルバスと乗り合いタクシーを乗り継いで辿り着いたその場所は、荒涼とした乾燥地帯の中に突如現れる異質な建造物だった。何がどうしてこんなことになったか判らないけれど、その迫力に僕は立ち尽くした。そこに居た日本語の喋れる客引きは親切で、お茶を飲ませてくれたり僕のバックパックを無料で預かってくれたりした。お決まりの「奥さんが日本人」という台詞は万国共通なのかもしれないけれど、気にもしなかった。
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その後もマラケシュ・カサブランカと歩いて僕のモロッコは終わってしまったけれど、そこで過ごした時間は穏やかに流れていた気がする。ふいに香る水タバコの甘さや、モロカンサラダ、いつまでもカフェに居座る人々、深夜まで老若男女の姿が絶えない公園。モロッコのそんな風景がヨーロッパを駆け抜けた僕を安堵させた。旅慣れた人にとって、怪しいようで怪しくないアラブを満喫するにはモロッコはうってつけの場所なのかもしれない。
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ただ、乗り合いタクシーは8人乗りだった。そういういい加減さが、やっぱり僕は好きなのかもしれない。
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次回はエジプト編を記します。


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3b. 世界一周ノート 第28回:イタリア・スペイン


3b. 世界一周ノート 青木大地

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青木大地(あおき・だいち)

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3b. 世界一周ノート 第28回:イタリア・スペイン

クロアチアの首都、ザグレブからイタリアのヴェネチアまでは、ミニバンを乗り継いで移動した。
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水の都はホテル代が高過ぎて、僕は駅にバックパックを預けての1日素通り観光をすることにして、その日のうちに夜行でローマに向かう算段をたてた。
ずっと憧れていたヴェネチアは世界中から人が押し寄せる一大観光地だった。物価はこの旅史上最高に高く、何も食べれないし、買えなかった。公共の水上バスですら1000円近くするため、僕は片道切符だけ買って、後はひたすら水の都を散歩して歩いていた。
訪れた地が観光地であればある程、僕は孤独を感じて精神を削られる体質に変わっていた。そういう意味でヨーロッパがもたらした苦痛は大きく、○○を見たことがあるという経験値だけが積み重ねられていっている気がしていた。
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イタリア人の印象は最初、陽気で好感が持てたけれど、その幻想はイタリア入国初日で終わった。
僕はヴェネチアとイタリア本島を繋ぐ一本道をバスか電車のどちらで越えるか考えていた。ローマへの夜行列車はヴェネチアからかかる橋の先のメストレから発車するため、そこまでの移動が必要だった。
結局、時間もあるので僕は歩くことにした。観光センターの窓口で確認したところ、徒歩40分と言われからだった。バックパックを背負って歩き出すと、ヴェネチアの夜景が背後に輝いて美しかった。
夜景は永遠にそこにあるかのように思われて、僕が一本道の橋の上を歩いている間、誰ともすれ違うことはなかった。本当に夜景は半永久的にそこにあった。40分を過ぎても橋の半分にも辿りつかなかった・・・
結局歩き続けてやっとメストレ駅に着いた頃には3時間が経っていた。距離にして10km、僕はいい加減なイタリア人を呪っていた。
そして買ったはずのローマへの直通列車は2度の乗り換えがあって、車内は満席で廊下に座り込んで夜を明かすという、アジアでもやったことのない過酷な深夜移動だった。

移動に次ぐ移動でボロボロになった体に鞭打ったローマ観光は割と1日にして成ってしまい、僕はヴァチカン市国内のレストランでパスタを食べた。イタリアに来たらイタリア料理、という安易な僕はかなり奮発して観光地のど真ん中のカフェテリアで優雅な時間を過ごし、満足していた。しかし・・・後でクレジットの請求を見てわかったのだけれど、倍以上の料金が請求されていた。その時にレシートは確認していたのに・・・どうやらレジの中で二重にカードを切られていたらしい。
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その後はピサの斜塔の傾きを直しつつミラノへと足を伸ばした。名画「最後の晩餐」は入場規制でチケットが買えず見ることができなかった。チェックアウト時間を巡って宿のオーナーとも揉めた。
最後まで何故だか僕はイタリアとの相性が良くなかった。観光地イタリアは陰気なバックパッカーを寄せ付けない、華々しい場所だった。
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僕はミラノから長距離バスに乗ってマドリッドを目指した。スペインに入って、バルセロナのターミナルからはサグラダファミリアが見えた。
ちょうど一年前、僕は旅行者としてこの地を訪れていた。その時の輝かしい思い出が蘇った。僕は心も体もその時と全く別の人間になってしまっていた。節約を掲げつつも観光地を貪る様に渡り歩き、髭だらけの痩せこけた顔はみすぼらしかった。自分の成長を願って始めたはずの旅なのに、自分はどんどん小さな人間になっていっている気がした。
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それでもスペインの陽気さは荒んだ僕を温めてくれた。マドリッドは物価も安く、旅疲れをとるのには良い場所だった。これといった観光地はなくても、ダリやピカソの絵を偽の学生証を提示して安く眺めて、帰りに野菜を買ってパスタを作るだけで癒された。
東欧を主に巡って過ごしたヨーロッパでの1ヶ月はあっという間に過ぎた。思えばお金のことばかり考えていた。余裕がない訳ではないけれど、やはり僕にとってのヨーロッパはそういう心配が付き纏う場所だった。だからこの先のアフリカ大陸にはより一層期待が持てた。まずはモロッコへ、ジブラルタル海峡のその先に僕は思いを馳せてヨーロッパ最後の夜の目を閉じた。アフリカで待つこの旅最恐の体験なんて想像もつかずに。
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3b. 世界一周ノート 第27回:ポーランド・クロアチア


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3b. 世界一周ノート 第27回:ポーランド・クロアチア

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ブダペストから列車に乗り込んで、僕はポプラドの駅で列車を降りた。駅の周りには何もなく、少し高そうなホテルが幾つかあるだけだった。
そのままバス亭に向かい、ザコパネ行きのバスを探した。チケット売り場は閑散としていて、ザコパネ行きのチケットはなく、ローカルバスを待たねばならないということがわかった。バスはどうやら1日に3本で、停留所で確認し、15時の最終に何とか乗れることができた。行ってみればやはり何とかなるものだった。
バスは山を越え、山岳避暑地・ザコパネへと向かった。

ザコパネの町は観光客で賑わっていた。日本でいうところの軽井沢のような場所だった。サイクリングやハイキングに訪れた人々がその涼しい町を行き来していた。とても心落ち着く場所だった。目的地であるクラクフへのバスも毎日運行しているようで、僕はほっとした。
世界中にはまだまだ知られていない観光地があって、それは単に僕が知らないというだけのことだった。
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折角来たので僕はトレッキングに出かけた。モルスキエ・オコという湖を見に、半日かけて歩いてみることにした。湖の畔で魚を眺め、チョコレートを食べると、降り出した土砂降りの雨もどうでもよくなるくらい清々しい気持ちになった。
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ザコパネを北上し、僕はクラクフへと辿り着いた。念願のアウシュビッツ観光、東欧の物価はやはり居心地よく、ユーロ圏へ先が思いやられた。
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クラクフを経て、僕はまだまだ東欧に後ろ髪を引かれ、時間もないのにずるずると東欧諸国を巡った。スロバキア・スロベニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ。旧市街のお城や川はもちろん、歴史的名所なんかを見ながら市場で旬の桃を買って食べて過ごした。日本人観光客の姿はなく、東欧=危険?というイメージが根強く残っているせいなのかもしれなかった。今ではルーマニアやウクライナを訪れなかったことが心残りになるくらい、僕は東欧に対するイメージを一新していた。
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そんな東欧で唯一日本人フィーバーしている国がクロアチアだった。どうやらクロアチア観光のTV放映があったらしく、観光客が大挙していた。目的地は南部ドブロクニク(魔女の宅急便や紅の豚の舞台になったとされる場所)とプリトヴィツェ湖群国立公園だった。ドブロクニクはホテル代が高く割愛したけれど、東欧で出会った旅人たちが口を揃えてオススメするので、プリトヴィツェには僕も行ってみた。

首都ザグレブからの日帰りはバスの数も多く、1日観光としてはかなり充実した内容だった。巨大な公園内を歩いて回るので体力的には中々厳しいけれど、とにかく透明度の高いその湖の景観は単純に美しかった。やっぱりチョコレートを食べて、見渡す湖は旅の中の貴重な安息になった。
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次回は最悪のイタリア・そしてスペイン南部へ、を記します。


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とりあえずの予定コース:上海→杭州→南寧→ハノイ→ホーチミン→シェムリアプ→チェンマイ→ルアンパバーン→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー→チェンナイ→ムンバイ→アグラ→デリー→バラナシ→ブッダガヤ→コルカタ→ダージリン→ポカラ→ルンビニ→ガヤ→カトマンズ→ポカラ→トルコ→ギリシャ→ブルガリア→ポーランド→クロアチア・・・以降西ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、南米と巡る予定

3b. 世界一周ノート 第26回:ギリシャ・ブルガリア・ハンガリー


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第26回:ギリシャ・ブルガリア・ハンガリー

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アテネ港からギリシャに入り、通貨はとうとうユーロに変わった。財政破綻に揺れるギリシャにあっても、その物価の高騰は明らかだった。
西欧文明の一大拠点ギリシャは観光客で賑わい、洒落たカフェが並ぶ一方で、15時にもなれば商店が軒並み店じまいを始めるちょっと異質な国だった。17時にもなれば街はがらんと空洞のようになっていた。
それでも宝くじやビンゴやサッカークジなどを売る店だけは常に人で埋まっていて、ギリシャの抱える業のようなものが垣間見えた。

安価な深夜の列車で僕は巨大な岩の上に建つ教会群メテオラを見るためにアテネを北上した。駅で夜を明かし、バス・タクシー代金をケチって歩いて観光をした。
メテオラの雄大さに感動はしつつ、日本で雑誌を見ながら思い描いた風景とはどこか違うと感じていた。それは、僕の旅がいつしか観光に重点を置かないものへと変容していた証でもあった。
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メテオラは少し寂しく、夕日に染まるその景観を後に僕はギリシャを北上した。再び深夜、列車が着いた先はテッサロニキという街で、僕はそこでそのままブルガリアの首都・ソフィアへと向かう深夜バスに乗り込んだ。
ブルガリアに向かった目的は特になく、単にhostel worldで安ホテルが幾つかあるという情報を得たからだった。
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意外にもヨーグルトの国、ブルガリアはヨーロッパ恐怖症になった僕を癒してくれた。清潔で安いホテル、何を食べてもセットで付く飲むヨーグルト、大盛りの中華屋、これといって面白くもない観光資源、ちょっと安い物価が、僕の緊張を和らげてくれた。
旅人が東欧諸国を好きになる理由が判った。それはアジアを巡る旅人が口を揃えてラオスが好きだという理由と同じだった。
のんびりと旅の疲れを癒す場所、何もせずに日々が過ぎることに窮屈にならないこと、物価が安いこと。これらは旅人の心を惹き付けて、その場所が理想的だという錯覚を抱かせてしまう。東欧にはそんな魅力があった。

ブルガリアでの沈没をなんとか回避し、僕はハンガリー・ブタペストへの深夜バスに乗った。ブダペストもまた、安ホテルが充実していた。ヨーロッパの安ホテルではキッチンが基本的に使えて、パスタやお米を持ち歩いて自炊する日々が続いた。
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トマトソース缶に野菜を1つだけ買って入れる質素なパスタが僕の定番になっていたけれど、西欧人がパスタにケチャップを直接かけて食べているのを見た時はさすがに日本人の食に対する感覚の豊かさに感謝した。
ブダペストは温泉が有名で、僕も例に漏れず出かけた。中心から少し離れた安いローカルの温泉だったけれど、久しぶりの大浴場はトルコでの垢擦りの不完全燃焼を払拭させてくれるほど快適だった。
市場では名物のフォアグラを買ってきて、ステーキにして食べた。夜景を見に散歩に出て、「川・橋・城」というヨーロッパの基本構造を眺めると、誰とも感情を共感し得ないことを後悔した。美しい景色ほど、より孤独を際立たせた。
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それでも貪欲に観光を続ける僕はここで手詰まりになってしまった。予定していたポーランド・クラクフへの足が見つからなかった。バスは向こう1週間満席、列車は高過ぎて手が出なかった。
アウシュビッツを諦めるなんて考えられない、そう思った僕はアジアで培った勘(人が居て、動く限り何かしら道があって交通機関がある)を頼りに賭けに出てみた。
ルートはブダペストからポプラド(スロバキアの田舎)を経由してザコパネ(ポーランドの避暑地)を抜けてクラクフに入るものだった。電車とバスを乗り継ぐことになり、時刻表の情報もどこにもなかった。それでも僕はブダペストからの列車のチケットを買っていた。ポプラドへのチケットは比較的安価で余っていた。
果たしてヨーロッパはアジアのようには行かないのか、行き当たりばったりに胸を躍らせつつ、僕は列車に乗った。

次回はポーランド・弾丸東欧周遊・そしてイタリアへ、を記します。


世界一周ノート
とりあえずの予定コース:上海→杭州→南寧→ハノイ→ホーチミン→シェムリアプ→チェンマイ→ルアンパバーン→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー→チェンナイ→ムンバイ→アグラ→デリー→バラナシ→ブッダガヤ→コルカタ→ダージリン→ポカラ→ルンビニ→ガヤ→カトマンズ→ポカラ→トルコ→ギリシャ→ブルガリア・・・以降ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、南米と巡る予定

3b. 世界一周ノート 第25回:トルコ


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第25回:トルコ

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トルコはアジアとヨーロッパの境目として旅人にとっては感慨深い場所だと思う。アジアから向かう人にとっては貧乏旅の終わりであり、ヨーロッパから入る人にとっては物価が下がる安心感と衛生面の不安が首をもたげる場所だ。
僕もそんな気持ちでトルコへと足を踏み入れた。イスタンブールの街は美しく、モスクやハラル料理、親日的な客引きやそうでない客引きと、勧められるチャイ、全てが期待通りのトルコがそこにあった。

ただ、僕はトルコが境目だとは思わなかった。それはトラムやメトロ、長距離バスに如実に現れていた。トルコは完全にヨーロッパだった。
整っていた。トラムやメトロは時間通り往来し、長距離バスにはWiFiが完備されていた。それはアジアでは考えられない、ヨーロッパ水準だった。
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では、何故皆がトルコを境目と言うのか?それは物価なのだと思う。旅人にとってこれだけの整った環境に対して、物価はアジア水準で計算できた。ケバブは200円でお釣りがくるし、ジュースやお菓子も安かった。
親日という話も嘘ではなく、カッパドキアで泊まった安宿のオーナーは日本人がオスマントルコ帝国を救ってくれた話をしながら涙を流していた。
豊富な観光資源に有り難い物価、人、環境。居心地は良く、僕は女子旅もバックパッカーも観光客も、全ての人にトルコはハマると感じた。
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そしてこんなことにとっくに気付いているのが韓国人で、トルコには多くの韓国人観光客が押し寄せていた。僕はトルコからはフェリーでギリシャへと渡ったのだけれど、エーゲ海沿いのボドラムという港町はバカンスを楽しむ西欧人で溢れ返っていた。西から東から、トルコの快適さを求めて人が集まっていた。
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僕もお金がないなりにトルコを楽しんだ。地元民向けのハマム(垢擦り付きの蒸し風呂)ではあまりの垢の多さに担当のおじさんに嘔吐かれ、長距離バスを値切り続けていたらバス会社から追い出された。ボドラムでも公園で野宿していたら警官に囲まれて起こされた。こうやって僕は徐々にアジアからの脱皮を余儀なくされた。イスタンブール→カッパドキア→パムッカレ→ボドラムというかなり端折ったルートではあったけれど、僕はトルコには良い思い出しかなかった。
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旅が快適だとあまり事件も起きない。そしてそれはヨーロッパを抜けるまで続いてしまった。だから僕にとってヨーロッパは単なる移動と観光地獄の始まりだった。如何にして夜行移動で宿泊費を浮かすか、それが知恵の絞り所で、僕はそれに全てを賭けた。なので次回からは、そういった工夫を記していこうと思う。それなりに名だたる世界遺産をつまみ食いしてきたけれど、ただ何かが美しかったという話はあまりにくだらないので。

今回のルートでは、トルコからフェリーでギリシャへ抜けた部分がポイントだった。港町ボドラムからコス島(ギリシャ)を経由してアテネへ入るフェリーが最も安かった。サントリーニ島やロードス島という経由便もあったけれど、僕は安価な、そして船上泊が可能なものを選んだ。コス島では半日待たされるため、海に湧く温泉に行ったりして暇を潰した。この温泉(海?)にはトイレがなく、少し厄介になった。
ボドラムからは島を経由し、イタリアに入るものもあるようだった。エーゲ海では赤い夕日とイルカが泳いでいるのが見えた。
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次回はギリシャ、東欧諸国の魅力 を記します。


世界一周ノート
とりあえずの予定コース:上海→杭州→南寧→ハノイ→ホーチミン→シェムリアプ→チェンマイ→ルアンパバーン→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー→チェンナイ→ムンバイ→アグラ→デリー→バラナシ→ブッダガヤ→コルカタ→ダージリン→ポカラ→ルンビニ→ガヤ→カトマンズ→ポカラ→トルコ・・・以降ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、南米と巡る予定

3b. 世界一周ノート 第24回:カトマンズ~ポカラ


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

Profile
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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

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第24回:カトマンズ~ポカラ

ダージリンからトイトレイン、乗り合いジープと乗り継いで、僕はチェンナイ空港でとったアライバルビザの30日間ギリギリでネパールへとインドから出国した。
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ネパールに入ると、カトマンズ行きのバスの客引きと両替商がすぐに集まってきた。レートの良い両替商はバス停のすぐ近くに居て、その人たちを信用して僕はポカラ行きの安いバスのチケットも買った。とにかく夜行バスはファーストクラスだと聞いていた。モモというネパール餃子(ネパール滞在中はこれが主食だった。ポカラではバッファロー肉を使ったモモがよくある)を食べながらバスを待って、ついに1時間遅れでやって来たボロバスの後方座席はパイナップルでいっぱいだった。
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それでもインドとは違う殺伐としていない感じがそこにはあった。
そして湖畔の町ポカラはもっとのんびりしていて、まさに沈没地としての鏡のようだった。ホテルのルーフトップから湖を眺める、それだけで何日も無為に過ごせる、そんな場所だった。
ここで出会った沈没さんは、世界一周のつもりがポカラに来てストップし、抜け出せず、最終的にはホテルのボランティアスタッフへと昇華する荒技を繰り出していた。
やはり観光地としての魅力的な場所と旅人としての魅力的な場所には大きな差異があって、ポカラは後者にあたる。見所はないけれど、ただ過ごすには申し分ない、世界有数の沈没地がポカラだった。
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ポカラでの沈没に後ろ髪を引かれながらも、僕はブッダが生誕したルンビニへと立寄った。
ルンビニでは口コミで食事が美味しいと言われる韓国寺に宿泊した。朝夕2食付きで、ロビーではwi-fiも使えた。ただ、ルンビニエリアは停電が頻発し夜は必然的に早く寝ることになってお寺暮らしが捗った。
各国の寺院が並ぶ園内は丹下健三が設計をしたらしい。ただ、無駄に広い敷地と工事中ばかりのお寺たち、そして手入れが行き届かなくて生い茂る草木などを見ると、丹下健三がイメージしていたものとはだいぶ違った感じになっているんだろうなと、少し不憫になった。
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何となくブッダの面影を追いたくなって、インドではガヤ、そしてルンビニと訪れた僕は悟りとは程遠い煩悩まみれの状態でカトマンズへと抜けた。
カトマンズではヒマラヤ連峰へのトレッキングの準備期間を過ごす人やドラッグ系パッカーが散見された。街には安価な偽物アウトドアグッズショップが並び、客引きがしつこく声をかけてきた。
ポカラのペンギンゲストハウス・カトマンズのチェリーゲストハウスの日本人宿はその手のパッカーの溜まり場として名高く、僕が少し覗いたチェリーでは、屋上で温かい会合が開かれていた。リーダー格の男の鋭い目と、それに従事するかのようなこじらせまくりの女の子の姿が印象的だった。
知らない人が買ったのを見せてもらったのだけれど、ハシシは写真のサイズで500円だった。これが相場なのかは不明だけれど、それなりに消化するには時間がかかりそうだった。
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ネパールは、登山[自分への挑戦]とドラッグ[自分を堕とす作業]という旅行者が織りなす二面性を持っていた。真逆の志を持った人たちが各々の目的のために混沌を形成していた。
それでもネパールのモモは美味しいし、朝のチャイは誰にでも平等に甘かった。
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カトマンズの小さな国際空港からトルコへ。いよいよ僕のアジアが終わってしまった。
整っていないことへのストレスはもう味わうことがなくなると思うと、嬉しいようでやっぱり寂しかった。旅の難易度も急激に下がることが目に見えていた。
急に目的意識というか、修行感のようなものが失われてしまった気がしていたけれど、ただひとまず一区切り、僕はヨーロッパへと向かうことにした。

次回からはヨーロッパ突入編、トルコって素晴らしいを記します。


世界一周ノート
とりあえずの予定コース:上海→杭州→南寧→ハノイ→ホーチミン→シェムリアプ→チェンマイ→ルアンパバーン→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー→チェンナイ→ムンバイ→アグラ→デリー→バラナシ→ブッダガヤ→コルカタ→ダージリン→ポカラ→ルンビニ→ガヤ→カトマンズ・・・。以降ネパール、トルコ、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、南米と巡る予定

3b. 世界一周ノート 第23回:インド コルカタ、ダージリン


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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aoki_s

青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

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第23回:インド コルカタ、ダージリン

バラナシ、ブッダガヤと聖地を梯子して、罪を完全に流した様な気になって、僕はカルカッタへと辿り着いた。

サダルストリートにはバックパッカーが集まり、安宿やレストラン、怪し過ぎる客引きが密集していた。
それでも路地を抜けると汚い市場や、泥水で体を洗えるオープンな公衆浴場などが姿を現した。ショッピングモールや日用品店も目にし、都会的な面も併せ持ったその街は深夜特急で僕が抱いていたイメージとはだいぶ異なった。カオサンも、ホーチミンのデタム通りもそうだったように、時代は当たり前のように変わっていた。悲しいくらい「比較的便利」になってしまっていた。
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だからこそ、三島由紀夫が豊穣の海で描いたカーリー寺院の儀式だけは見ておきたかった。殺戮の女神への生け贄で差し出される山羊の断頭の儀式を。
寺院に朝8時に着いて、いつ行われるかわからない儀式をひたすら待った。ある人は9時からと言い、ある人は10時、ある人は今からやると言い、またある人は今日はやらないと教えてくれた。僕は寺院の中で数人の物乞いの横に腰掛けてとにかく儀式が行われるのを待った。
物乞いの皆さんとも一体感が生まれつつあった10時、山羊が次々と運ばれてきて、遂に断頭の儀式が始まった。
山羊の首はよく研がれた刃で落とされ、人々は僧侶からその血を額に授かり祈りを捧げていた。僕にはそういった性趣向はないけれど、その瞬間だけは興奮した。それは、予想を裏切らない光景だったからかもしれない。
旅を続けて、観光地を次々巡るうちにその感動は薄れる。旅が日常として成立してしまった以上、その感覚は宿命的なのだけれど、時々この様な陶酔感覚に陥ることがある。それはきっと現実が想像を越えた時なのだと思う。
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また、カルカッタにはイスラム教徒の居住区があって、そこで牛肉の入ったカレーを食べることができた。インドに入ってから毎日粗悪な鶏肉ばかり食べていたので、久しぶりの牛肉は美味しく、もしかしたら山羊の断頭くらい僕は興奮した。
たった3週間ぶりの肉にこの感動なら、ビーガンにステーキを食べさせたらどうなってしまうんだろう?なんてくだらないことを考えながら僕はカルカッタを後にした。

ダージリンには鉄道とジープを乗り継いで辿り着いた。ダージリンは世界三位の高峰カンチェンジュンガが見渡せる、紅茶が有名な避暑地だった。登山に興味のない僕の目的はトイトレインと呼ばれる山岳鉄道だった。
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ダージリンはシーズンオフで毎日雨が降り、カンチェンジュンガが見渡せるタイガーヒルのご来光ツアーは催行されていなかった。それでも僕は散歩をするだけで満足だった。落ち着いた町を見下ろす小高い丘でチャイを飲むだけで、満たされた。ダージリンはネパール、シッキム、チベットの血が混ざるため、人の顔がインドと変わり、それだけで僕は何だか安心していた。食事はネパール料理の影響が大きく、美味しかった。
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ダージリンでインドの30日間を終えて、僕は結局インドに翻弄されて終わってしまった。ただインドを離れられるということだけがこの時は嬉しかった。
結局、僕はインドを好きになるでも嫌いになるでも、行ったことで人生観が変わる人間でもなかった。インドは大きくて、カーストを巡る宗教国で、剥き出しの人間たちがいて、たまに美しくて、捉え所がない。だから僕がインドについて言えるのは、本当にインドを理解するにはシングルビザでは足りないよ、ということだけかもしれない。
そして、もしもう一度インドに行くとすれば、僕は観光客という立場を放棄して何れかのカーストに属してみたいと思った。どんなに貧しくても下位カーストの者に恵みを与える感覚はどんなだろうと、身勝手でろくに喜捨もできない僕は考えている。

次回はネパール、ポカラという沈没地・聖地ルンビニ・カトマンズのハシシと日本人について記します。


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3b. 世界一周ノート 第22回:インド バラナシ


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
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第22回:インド バラナシ

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アグラからデリーを経由してガンジス河へ、僕はインドを北上する列車旅を続けていた。

各都市の滞在は3日程度で、全然時間が足りなくて、やはりインドは広大で、旅行者にとってそれだけ魅力的な場所であるらしかった。アグラ・デリーは観光資源に富んでいて、安宿の設備も安定していたので、僕は特に不自由なく散歩をすることができた。
フマユーン廟もクトゥブ・ミナールも、列車の長い列もスラムも、慣れてしまえばそれは日常風景に成り下がり、いよいよインドという刺激が僕を侵食してしまったみたいだった。
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ガンジス河での沐浴は僕の旅行計画のハイライトでも有り、どうしてもやりたいことの一つだった。だから聖地バラナシは憧れの地であったし、僕にとって旅人の帰結点の様な勝手なイメージを抱いていた。
それなのに僕は夜行列車を降りた時から体調が悪かった。
安宿エリアは道が複雑に入り組んでいて不衛生で、僕は迷い込んで、客引きに囲まれながらホテルを決めた。ホテルは当たりだったけれど、部屋に入るなりすぐに寝込んでしまった。
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目が覚めて夕食を求めて近所を歩くと、氾濫するハングル文字に気が付いた。安食堂でも韓国料理のメニューが並んでいる。おかげで僕はおかゆの様な食べ物を発見でき、怠さを促すことができた。そこかしこに点在するバングラッシー屋にもハングルが躍っている・・・
後々の滞在で見聞きしたところによると、バラナシの街は韓国人旅行者(特に処方箋目当て)のメッカとなっているらしい。
「聖地」という理由にかこつけて、半合法的に扱われるそれらの商品を、普段海外でハメを外さない韓国人が謳歌していたのだ。
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途端、僕の中でバラナシは何だか汚らわしい場所のように思えてきてしまった。
客引きたちはバングラッシーとハシシを売ることで頭がいっぱいで、川の畔でゆっくりチャイを飲むことすらできなかった。
毎晩行われるガートでの儀式も、死を待つ物乞いも、流れる死体も、朝日と共に行われる沐浴も、決して神聖なものではなく、淡々と日常的に行われていた。
そしてそのすぐ傍らには聖地の名産品を売り歩く輩が闊歩しているのだった。
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僕は忘れる度に何度もこの感覚を思い返した。そう、この混沌こそがインドなのだと!

体調が悪く、簡単なお薬を処方した僕がガートでぼんやりしていると、ある日本語堪能な客引きがしつこく声をかけてきたので、適当にあしらうと彼は怒り始め、僕に暴言を浴びせ始めた。
「お兄ちゃん、そういうの良くないよ!神様見てるよ!次の人生で罰が当たるよ!」と。
何だかとってもショックだった。聖地の横でそんなことをしている男に僕は人格を否定され続けた。薬のせいで微睡んで、微睡んで、頭がおかしくなりそうだった。僕はこの旅で何をしているんだろうか?・・・
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結局、僕の体調は回復せず、バラナシでの沐浴は1度きりになってしまった。それも、腹痛でホテルまでの帰り道に牛の横で失禁するという散々なおまけ付きだった。
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気付けばインド滞在可能の30日がせまっていた。このままバラナシを北上してネパールに抜けるルートが一般的だったけれど、僕はもう少し足を伸ばすことにした。
ブッダガヤ・カルカッタ・ダージリン・・・深夜特急や三島由紀夫の描いた世界を生で確認する必要があった。
僕はまだインドの何物をも掴めていない、そんな焦りがあった。

次回はカーリー寺院・山羊の断頭儀式、ダージリン・トイトレイン、ネパール入国を記します。


世界一周ノート
とりあえずの予定コース:上海→杭州→南寧→ハノイ→ホーチミン→シェムリアプ→チェンマイ→ルアンパバーン→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー→チェンナイ→ムンバイ→アグラ→デリー→バラナシ・・・。以降ネパール、トルコ、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、南米と巡る予定