カテゴリー別アーカイブ: 3b.世界一周ノート

3b. 世界一周ノート 第40回:南米 その2


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

Profile
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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

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3b. 世界一周ノート 第40回:南米 その2

ウユニ02

ウユニの町は小さく、広大な塩湖という観光資源に支えられた辺鄙な場所だった。それでもローカルの市場や人々の生活風景は長閑で雰囲気が良かった。リピーターが続出する理由が、ウユニ塩湖観光も含めてなんとなくわかった気がした。
僕はといえば、マチュピチュから続く高山病に母親と苦しめられながらも、豊かな観光生活を満喫していた。ウユニでは1泊は400円の安宿に泊まり、1泊は塩でできた高級ホテルに泊まった。この旅を通して、こんなにも布団や枕が臭くないことが素晴らしく、配膳された夕食がこんなにも美味しいと感じたことはなかった。
塩ホテル
塩ホテル晩餐

ウユニ塩湖はシーズンを少し外していたけれど、充分絶景を楽しむ事ができた。そして慌ただしくも賑やかな一週間を経て、母親と叔母は大量のお土産をあちこちで買い込んで帰っていった。
ウユニ01
ウユニ03
お土産買う叔母

ボリビアの首都、ラパスに戻って一人になった僕はあることに気が付いた。米ドルがない!ということに。調子に乗ってマチュピチュ・ウユニ観光でNYで稼いだ米ドルを使ってしまっていたのだ。そして手元には母親が代わりにくれた大量の日本円があった。南米では基本的に日本円の価値は低く、両替レートは極悪(10000円→現地通貨で4500円)で、受け付けてくれる場所すら殆んどなかった。今後、アルゼンチンへと向かうにあたって、現金がないということは大問題だった。スキミング被害が相次ぐ南米でのカード使用は極力控えたかったからだ。ラパスを歩き回ってみたものの、闇両替・銀行もごく一部の取り扱いなうえ、レートはどこも厳しかった・・・
ラパス夜景

減り続ける僅かな米ドルに焦りながら、僕は旅を続けた。チチカカ湖の湖畔の町、コパカバーナでは何もせず無為に3日過ごした。湖ビューの部屋は1泊300円で、快適だった。移動続きだった南米で初めて落ち着けた場所だった。トルーチャという魚のフライが美味しかった。
コパカバーナ
コパカバーナホテルより
トルーチャ

コパカバーナの帰り、幸運が訪れた。何故か市内からは遠い空港の近くでバスを降ろされた僕は、なんとなく空港の中を散歩した。そして一軒の両替屋を覗いた。思いのほかレートが良かったのだ!(と言っても10000円→75$)僕は残り僅かな旅を乗り切れるくらいの米ドルを手にすることができ、安堵した。まぁ、何とかなるもんだなと、僕は懲りもせず思っていた。襲われても、お金がなくても、大抵の事は何とかなるもんだなと。
コパカバーナ市場

ラパスからはボリビア第二の都市サンタクルスへとバスで向かった。サンタクルスは治安が悪く、市内の市場は目つきの悪い不良少年たちがたくさん居て殺伐としていた。宿ではひったくりに気をつけろと念押しされた。バスターミナルにも少し緊張感があった。ボリビアの安飯メインフード「ポリョ」(フライドチキン)生活にも限界がきていた。だから僕はブエノスアイレスに向けて南下を急いだ。
サンタクルス市場
ポリョ

次回、イグアスの滝、南米ドラッグ横行地帯を記します。


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3b. 世界一周ノート 第40回:南米 その1


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
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3b. 世界一周ノート 第40回:南米 その1

NYでの生活を経て、僕は最後の大陸、南米へと向かった。南米では残された時間が少なく、有名観光地ばかりを巡ることになった。
すっかり気温の下がった秋のNYを抜けて、僕はペルー、リマ空港にたどり着いた。マチュピチュ、ウユニ塩湖という王道観光を見据えた行程で、日本を出る時から決めていた母親と叔母と合流するというミッションが僕にはあった。強盗事件の後のバタバタもありながら、なんとかスケジュールを調整して僕は1年ぶりに母親とリマで再会した。
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空港のロビーで待ち合わせると、痩せ、薄汚れた僕に母親は驚いていた。僕たちはさっそくタクシーに乗り込んでリマのホテルへと向かった。ホテルは市内の、部屋にお風呂とトイレがあるタイプの部屋だった。バスタオルもあった。久しぶりの感覚に、僕は日本人らしさを僅かながら取り戻した気がした。バックパッカーという息苦しさが、果たして本当に必要なものなのかどうか、時々わからなくなっていた自分にとってはより考えさせられる瞬間だった。

翌日から僕たちはバスでナスカへと移動し、地上絵を見るためにセスナ機に乗ったり、目抜き通りのレストランで食事をしたりした。セスナ機に酔った母親が嘔吐するさまは可笑しく、誰かと一緒に過ごす時間と旅という豊かさが僕を安堵させた。あらゆる場所で値段交渉をする僕に母親は戸惑っていたけれど、1年で変わってしまった価値観はそのくらいのものだった。
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ナスカから今度はマチュピチュへ移動し、高山病に苦しめられ、強盗にも盗られなかったiPhoneをタクシーに忘れてきて失くしても、僕は笑っていた。お土産をたくさん買って、アルパカのステーキなんかを食べて過ごし、ふと見降ろした先のマチュピチュは達成感もあいまって美しく見えた。
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バックパッカーとしての経験やプライドをこの時に僕は捨てることができた。何でもみてやろう、という本来の目的を素直に受け入れることができた気がした。そう、僕はただの観光客なんだと、自分を楽観した。旅行者からは賛否両論のマチュピチュは、僕にとってセンチで思い出深い場所になった。

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次回、ウユニ塩湖からチチカカ湖、ラパス両替できない地獄を記します。


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3b. 世界一周ノート 第39回:ニューヨーク-その3


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
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3b. 世界一周ノート 第39回:ニューヨーク-その3

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NYに住む!

強盗事件の後、僕は大学時代の先輩を頼ってNYを訪れた。先輩はNYでライブハウスのミキサーや舞台の音響など、音楽関係の仕事をしていた。僕はその先輩の住んでいるシェアハウスのリビングに居候をさせてもらって1ヶ月を過ごした。その人にはかなりお世話になって、単発でカラオケバーでのバイトなんかも紹介してもらった。だから、これから記すのは悪口ではなくて、あくまで末端のアメリカのシェアハウスのレポートだということを先に言っておきたい。
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先輩の家に着いた日、既にトラブルが始まっていた。その家はベースメントと呼ばれる半地下に位置していて、サウスブルックリン(ジューイッシュの人たちが住むエリアだった)の、中々歴史あるアパートメントの一角にあった。老朽化の影響で排水機能が完全に麻痺していたその家は、僕が着いた日、上層階の排水が全て排水溝から逆流するという惨事に見舞われていた。排水機能は崩壊し、家中のあらゆる穴(風呂・トイレ・キッチン)からアパートメント全体の排水が逆流していた。僕は着くなり家中水浸しに成らないようにするためにバケツリレーに参加した。
なんとかこの日は収まったものの、僕が居る1ヶ月でこの排水トラブルは何度か起きた。下水臭もしていたので耐えられず、ある日僕らは部屋の地下にあるアパートメントの水道管を止め、全室の水の利用を制限した。すると、異変に気付いた住民達が騒ぎ始め、ついには警察が出動する事態に発展した。アパートメントには明らかな不法滞在者なども住んでいたけれど、そんなのおかまいなしに住民達が怒って僕の住んでいた部屋へと押しかけてきた。怒号が飛び交い「水道管をあけろ!」と僕らは攻められた。そして部屋に踏み込んで来た警察も「水道管を勝手に閉じることは違法だ。開けないと逮捕する」と言い出した。「どうすればいいんだ?このまま水道管を開ければ僕たちは生活ができない!」僕が言うと警官は「逮捕する」の一点張りだった。なんとか交渉で翌朝の修理工が来るまでという条件を引き出したものの、困っている弱者にも容赦のない、自由の国アメリカ・利己主義の国アメリカの片鱗を見た気がした。
他にも、上の階のメキシコ人がケータリング用の料理をキッチンでしていて、その汚れをバケツで水をぶちまけて洗うために起きる、天井からの水漏れという事件もあった。こちらは天井をこじ開けて、コンクリで固めたりするなどの日曜大工で対応したりした。更には部屋にネズミが住んでおり、毎夜鳴き声がし、時々キッチンで目が合ったりもした。玄関の前の鳩の糞の被害もおぞましかった。
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そんな部屋でバイトもしながら僕の1ヶ月はあっという間に過ぎた。サウスブルックリンからウォール街までの通勤は自転車で、ブルックリンブリッジを毎日渡っていた。朝食は毎日ダンキンドーナツで1$のコーヒーを買っていた。自炊する時は近所の小さなチャイナタウンで怪しい野菜や肉を買った。シェアハウスに住んでいた人たちにも支えられ、僕はすっかり元気になっていた。そして、なんとか1000$程を貯めることができた。もちろん居候代金は無料だった。最終日にはNYの日本人キャバクラにも連れていってもらった(この日本人キャバクラは某日本人大リーガーが奥さんを見つけた場所だった)。
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思い出は山のように増え、色濃い時間が流れた。そして僕は有り余る人の恩を感じて、NYでの生活に幕を下ろした。
JFKから目指すはペルー・マチュピチュだった。
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3b. 世界一周ノート 第38回:ニューヨーク-その2


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

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3b. 世界一周ノート 第38回:ニューヨーク-その2

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NYで働く!

恋人が日本に帰って、束の間の休息、人間らしい暮らしが終わってしまった。
僕は小雨の降りしきる中、教えられた住所を訪ねた。サウスブルックリン、ジューイッシュの住む区画にあるそのアパートメントは陰気な湿気が充満する場所だった。
インターホンを押して家に入ると、半地下にあるその家の中は浸水騒ぎで大忙しだった。そう、僕がお世話になるこの家は、トラブルが無数に押し寄せる訳有り物件だった。

大学時代の先輩Tさんを頼って、僕は居候をさせてもらうことができた。日本人が3人暮らすシェアハウスのリビングを占拠し、僕のNYでの生活はスタートした。
シドニーでやったことがあったので何となく勝手はわかっていて、僕は割とすぐに仕事を見つけることができた。NYにも日本人向けの求人サイトがあって、数多くの飲食店や肉体労働、ベビーシッターの求人が出ていた。きっと、このようなシステムは世界中で構築されていて、どこにいても日本人が困らないようにできているのが容易に想像できた。
ただ、NYで特徴的だったのが、その大部分が違法であるという点だった。シドニーのワーホリと違って、求人を出すこと自体がギリギリな感じっだった。アメリカは労働に対するビザが非常に厳しい国だから、簡単なアルバイト気分で外国人が正規に雇用されるなんていうことは有り得なかった。と同時に、NYで正規のビザを手にして人足仕事をしている人なんて存在しないという矛盾もあった。末端労働の大部分を担うのは「アミーゴ」と呼ばれる南米系の人たちで、彼らの働きがなければアメリカはきっと機能しないとさえ僕は感じた。NYでの細々した仕事を違法なんて言い出したら、明日にはNYは停止してしまうくらい、その労働力を彼らに依存していた。そして、そのおこぼれに授かっているのが韓国人や日本人で、あっちが大丈夫ならこっちも・・・という具合に社会が回っていた。
かくして僕もとあるレストランでブラックな仕事を手にすることができた。
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勤務地はウォール街のど真ん中にある老舗日本食レストランだった。所謂高級店で、単価もチップも高額だった。賃金はランチだけで1日50$くらいだった。僕は週5日、ウェイターとしてそこで働いた。申し訳ないけれど面接では嘘をついて「長期働ける」と言った。
仕事はシドニーに比べると厳しかった。職場には何年も不法滞在しながら働いている人、学生、日本語の話せる中国人、アミーゴたちが混在していた。日本人たちも訳有りな人たちが多かった。癖の強い、日本社会では通用しないんだろうなと、悲しくなるような人も居て、往々にしてそういった人たちが権力を握っていた(これは海外あるあるなんだけれども)。
居候の効果もあって1ヶ月、だいたい10万円くらいを貯めることができた。感覚としては、十分に覚悟を決めて腰を据えればNYで生きて行く事は可能だと思った。NYでの生活は夢でも何でもなく、薄汚れた不法労働を積み重ねることで簡単に実現しそうだった。ただ、NYはそこに居るだけで自分を特別だと思わせてくれる不思議な力の宿る街だった。どんな汚い格好で歩いていても、世界の最先端を歩いているような錯覚に陥った。各コーナーにスタバがあることは、そうまで人類を狂わせるのかもしれない。シドニーではなかったこの感覚が、NYに居る日本人の質を、より厄介にしていたのかもしれなかった。
そうして貿易センタービルの跡地から徒歩5分、金融街のど真ん中でドブネズミのように僕の1ヶ月は過ぎていった。
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以上、もしNYで働いたらどうなるかを想像して書いてみました。次回はNY訳有りシェアハウス、警察登場もあった事件の数々などを記します。


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3b. 世界一周ノート 第37回:ニューヨーク-その1


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

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3b. 世界一周ノート 第37回:ニューヨーク-その1

南アフリカで強盗に遭った僕は、旅を辞めてしまおうか真剣に悩んだ。確かに大陸を巡り、もう思う存分世界を旅したと行っても過言ではない、そんな状況にあった。そして僕はそんな自負を言い訳にして、帰国を何度も思い描いた。
そんな時、何度も跳ね返される疑問があった。 もう思う存分世界を旅した。本当に?
結局、僕は日本に居る両親に頼み込んでパスポート再発行のための戸籍謄本を取り寄せ、旅を続けることにした。もう予算的にも破産しか残っていない、無謀な旅になるとわかっていても、何故か続けることに意味があると僕はこの時信じていた。信じるしかなかった。それくらい、人は絶望すると前を向きたがるのかもしれなかった。

翌日、僕はパスポートを再発行して、その日の夜の便でニューヨークに向かうことにした。チケットは両親に代理で手配してもらった。ニューヨークには頼れる人がいた。もしかしたら仕事を紹介してもらえるかもしれない、そんな考えもあった。小さすぎるアメリカンドリームを信じて、僕はヨハネスブルグを後にした。空港から見た夕焼けは、世界一治安の悪い都市をマイペースに照らしていた。
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NYへの便はドバイ経由で、ドバイでは12時間のトランジットがあった。トランジット先のアブダビ国際空港からはドバイの都市まで無料のシャトルバスが出ていて、僕は暇なのでそれを利用して市内観光に出かけることにした。襲われた翌々日に観光を開始する自分を呪った。旅行を続ける以上、僕に残された選択肢は寝るか観光するかくらいのものだった。どんよりとした心境で眺めるドバイは、本当につまらなかった。石油によって発展した、歴史のない砂漠に現れた疑似都市はお金のない僕にとって地獄のようだった。
憧れのブルジュ・ハリファも何となく写真を撮って、後は何もする気が起きなかった。帰りの空港へのバスの待ち時間で出稼ぎに来ているインド人と話したことが、何故か鮮明に思い出せるくらい、これといった収穫のない場所だった。
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空港に戻り、いよいよ僕はNYへの飛行機に乗った。NYではお金を稼ぎ、トラヴィスに借りた500ドルを返すという使命があった。
JFKを出ると、夏の曇り空が広がっていた。NYで待っていたのは、日本から久しぶりに会いにきてくれた恋人だった。彼女は、僕を見てまず泣いた。そしてこの時ほど、生きてて良かったと感じた瞬間はなかった。僕は彼女と地下鉄に乗って、マンハッタンにあるホテルに向かった。と言っても、そこはシェアハウスだか日本人宿だかわからないマンションの一室で、彼女をこの貧乏旅に巻き込んでしまったことが辛かった。それでもマディソンスクエアガーデンの向かいのクドナルドで値段を気にせず注文し、スタバのグランデを注文し、ダンキンドーナツで豪遊すると、一文無しの心地はせず、何もかもが手に入るような錯覚を覚えた。
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僕はここから一週間、汚い格好をしながらNYの街を観光した。レンタカーを借り、ワシントンDCに住んでいるトラヴィスの家に遊びにも行った。泊めてくれ、観光にも連れ出してくれた。お金も返した。フィラデルフィアではロッキーのポーズを、ペンシルベニアではインテリをきどって落水荘を、ナイアガラの滝ではちょっぴりカナダ入国を。ファストフードばかりで彼女にはすまないことをしたけれど、僕は幸せだった。
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さて、彼女がいよいよ帰国して、僕は仕事を探さなければいけなかった。オーストラリア以来の仕事、そしてNYにはワーホリ制度がないため、完全な不法就労先を見つけなければならなかった。便りはNY在住の大学時代の先輩、ただ一人だった。移民の街、NYで僕はどうやって生活していくのだろうか?彼女が去った後はまたいつもの空しさに襲われて、僕はサウスブルックリンにある先輩の家を訪ねた。

次回、NYで働く!を記します。あと、恋人が会いにきてリア充旅と勘違いされると思いますが、一言。何もしてません。思い当たる節もあったりなかったりで、一応、最低限人としてクリーンな自分が証明されるまで、そういうことはなしでした。追記、帰国して諸々クリーンが証明されました。


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3b. 世界一周ノート 第36回:南アフリカ-その5


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3b. 世界一周ノート 第36回:南アフリカ-その5

襲われた僕たちは、言葉を失って立ち尽くすしかなかった。真っ昼間の駅前で、強盗に襲われて全てを失った僕はそこに立ち尽くすしかなかった。
現金、パスポート、キャッシュカード、クレジットカード、ラップトップ、その全てが消えてしまった。
呆然とする僕らに、身なりの汚い男が近付いて来た。そして「警察に連れて行く」と名乗り出た。
僕もトラヴィスも、藁をも掴む気持ちでその汚い男について歩いた。そして、歩く事1分、角に立っていた警官にその男は僕らを引き渡した。
そして、小銭を要求してきた。僕は全てを失った僕を見ていて、更に小銭を奪おうとするその男に絶望した。そして警官も、ろくに僕らの話なんて聞かず、警察署がある方向だけを教えてくれた。
それがヨハネスブルグ、そう言われている気がした。

警察署まで歩いて約10分、僕は何も持っていないのに、また襲われるんじゃないかという恐怖で震えていた。次こそは命を奪われるなんていう、嘘みたいで至極現実的な考えに捕われていた。
そして、僕は奇跡的にポケットに入っていたiPhoneに気がついた。僕に残された唯一の救いが、半分壊れかけのボロボロのiPhone4だった。
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警察署の写真なんて撮っている場合ではない僕は、一抹の期待を抱いて警察署に飛び込んだ。急いで強盗に遭った話を係官にすると、列に並ぶように促された。
僕らは30分程列に並び、簡単な紙切れ一枚を渡された。そして事情聴取が終了した。いい加減だとかそういうことでなく、日本で言う、家の鍵を失くした人程度以下の扱いを受けた。
自己責任という言葉の恐ろしさを呪った。パスポートのない僕はその日のNYへのフライトが間に合わないと悟り、まずは大使館へと向かうことにした。

警察署で約一時間だだをこね、粘り、大使館の連絡先を聞き、警察官の私用の携帯電話を借りて大使館に連絡をつけた。大使館は隣街、プレトリアにあることが判った。さっきまでカールトンセンタービルの向こうに見えていたあの街だった。
あまりの僕の執念に警官は知り合いの安全なタクシーを呼んでくれた。この土地ではタクシーさえ警官に呼んでもらって安全を確保する必要があった。今はもう、あの警察官にちゃんとお礼が言えたかどうかさえ僕は覚えていない。

トラヴィスはパスポートを持っていたため、その日のフライトに間に合いそうだということで空港に向かうことになった。そしてトラヴィスは僕にお金を貸すと申し出てくれた。
今思うと、ここで借りた500ドルがなかったら僕はどうなっていたか判らない。旅を辞めてしまっていたとも思う。
トラヴィスを安全なタクシーで空港まで送り、僕は大使館へと向かった。大使館のあるプレトリアまで1時間、僕は一度も触れなかったけれど、ダッシュボードの上には拳銃が置かれていた。

大使館には閉館ギリギリに着くことができた。その日は何も手続きができないからと言って、電話していた時に大使館の人が近くのホテルを予約してくれていた。そして、国際電話をかけさせてくれた。僕は実家に電話し、起きた事を伝えた。パスポートの再発行には戸籍謄本のコピーが必要な事、クレジットカードの再発行をして欲しいこと、次に買うべき航空券の行き先がどこなのか、自分でも判らないことなどなど・・・。

大使館の人はとても親切だった。噂通り、お金は貸せないと言ってはいたけれど、とても心配してくれた。持ち帰りの総菜の美味しいスーパーや、ホテルまでの安全な道なんかも丁寧に教えてくれた。久々の日本人のきめの細かい対応に感動した僕は、とてつもない無力感を抱えたままベッドに横になった。
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脱ぎ捨てた服は、襲われた時に引きちぎられていて、ボロボロだった。
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何度目を閉じても眠れない、そんな夜だった。

次回、ドバイ経由NYへ、を記します。


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3b. 世界一周ノート 第35回:南アフリカ-その4


3b. 世界一周ノート 青木大地

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3b. 世界一周ノート 第35回:南アフリカ-その4

カールトンセンタービルの展望台を後にした僕とトラヴィスは、次のツアーバスの出発時間までお茶でもして休憩しようかと、真っ昼間のヨハネスブルグの街を歩き出した。
僕とトライヴィスは適当な会話をしながら、1ブロック、2ブロックと気付けば歩を進めていた。ブロックのあらゆるコーナーには警官がいて、僕は安心していたのかもしれない。カールトンセンターから5分ほど歩いても街の様子はさほど変わらず、商店や人の賑わいもあった。路面電車の駅が横にはあって、僕はヨハネスブルグの街を歩いている。と誇らしげに歩いていたように思う。

その時突然、目の前に白いトレーナーを着た、背の低い黒人が現れた。そして僕とトラヴィスに対して小さく低い声で「ヘイヘイヘイヘイ」と呟いた。
次の瞬間、後頭部、背中に鈍痛が走った。何が起こっているのか、完全に理解できなかった。気付いたら僕は後ろから強い力で押し倒され、地面に顔を押し付けられていた。
ここで初めて「複数人に襲われている」と理解できた。僕のポケットやサブザックに無数の手が伸びてきて、パニックの中で、ぶちぶちっっと生地の破れる音だけが聞こえていた。目の前にはアスファルトだけが見えていて、どうすることもできなかった。きっと30秒ほどその状態が続いて、そのうちに無数の手から僕は解放された。唖然とした僕が立ち上がると、僕から離れた5人くらいの黒人が今度は既に押し倒されているトラヴィスへと次々襲いかかっていた。僕は貴重品が全て入っているカバンを盗られたことに気が付いた。トラヴィスは「ヘルプ!ヘールプ!」と丸くなりながら必死で叫んでいた。僕は何故か冷静になって、周囲を見回すと、数多くの通行人たちがさも日常風景かのように、何の感情も示さずにこっちを見ていた。結局、グループは全部で10人くらいになっていたと思う。誰も助けてくれない、ヨハネスブルグの13時、乾いた光景の中にトラヴィスの「ヘルプ!」だけが響いていた。僕は大声で助けを求めることも、トラヴィスを助ける事もできなかった。ただ、全てを失ったヨハネスブルグの街で、真っ白になった頭をどうすることもできずに立ち尽くしていた。
紛れもない地獄絵図がそこにあった。
ついにトラヴィスのサブザックを引きちぎった強盗たちは、走ることもせずに雑踏の中へと消えていった。僕は逃げもしない彼らを追うことすらできなかった。それは恐怖を通り越した絶望だった。殺されなかっただけ良かった、そういう安堵の感情も去来していた。
そうしてパニック状態の僕とトラヴィスは、ひとまず警察を捜すことにした。

次回、パスポートを失った日本人への大使館の対応について記します。


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3b. 世界一周ノート 第34回:南アフリカ-その3


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

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3b. 世界一周ノート 第34回:南アフリカ-その3

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ジンバブエから再びヨハネスブルグに戻り、僕は空港の近くの安宿へとタクシーで向かった。比較的治安の良いエリアにも関わらず、そこは厳重なセキュリティが敷かれ、タクシーで着いてもインターホン越しに何度か安宿の主人と問答が繰り返され、やっと中に入ることができる程だった。
中に入り僕が運転手にお金を払おうとすると、運転手がお釣りがないと言い始めた。僕が困っていると、安宿の主人がドライバーに激しくキレ、釣りを準備してくるよう言った。ドライバーは驚きながら渋々両替をしに(本当かどうかはわからないけれど)出て行った。無事にお釣りを受け取ることができて感謝する反面、僕は主人に少し気難しい人という印象を受けていた。

主人は親切だったけれど、一連の出来事から過剰に治安を気にしているとさえ僕は思った。外出は禁止(そんな宿は初めてだった)から始まり、次の日の予定やフライトまで執拗に宿帳に記入しなければならなかった。僕は翌日の夕方がアメリカ行きのフライトだと告げ、何ならそれまで市内観光でもしようかと思っていると相談してみた。すると全否定を繰り返し、「やめろ。大人しく空港でコーヒーでも飲んでいろ」の一点張りだった。それでも何かないか?と聞くとツアーのパンフを見せてくれた。ツアーは比較的高額で、博物館巡りなど、あまり興味の湧かないものばかりだった。それでも「このツアーなら安全だから」と主人は言うだけだった。

「違う!僕は世界一治安の悪いヨハネスブルグが見たいんだ!」なんて口が裂けても言える状況ではなかった。
安宿の客は僕だけで、大きな一軒家を改造したその敷地内で僕は無為に夜を過ごした。夕食はこれも主人の勧めでデリバリーを頼んだ。悶々とベッドで横になるうちに、僕はなんとしても市内に行きたいと考えるようになった。そして、宿の主人には申し訳ないけれど、翌日の市内観光を一人決意した。

翌朝、僕はチェックアウトし、空港に向かった。すると空港にはよく観光地で目にするあの二階建ての赤いバスツアーの窓口があった。興味本位で値段を聞くと安く、市内を効率よく回ってくれる内容だった。各停留所での停車時間に合わせ、好きなところを巡り、またバスに乗って次の目的地へと向かうフリーツアー形式のこの赤いバスを、世界中で走っているという理由だけで僕は信頼していた。
ツアー開始の集合場所は悪名高いヨハネスブルグのバスターミナルだった。首絞め強盗などの凶悪犯罪が報告されまくっている場所だ。正直、かなりビビっていたけれど、ここで決断を後押しするあるきっかけが訪れた。アメリカ人観光客、トラヴィスの存在だった。彼は仕事の出張でヨハネスブルグを訪れていて、同じタイミングでツアーの申し込みに来ていた。僕らは何故かここで意気投合し、気付けば一緒に市内までの列車に乗り込んでいた。
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無事にバスターミナルに着くと、トラヴィスから衝撃の提案を受けた。「ちょっと歩いてみないか?」というその言葉はアドレナリンが吹き上がるほどに魅力的で、足が震え上がる程怖かった。
しかし、この機を逃したら僕はツアーバスのバス停の周辺を少し動くだけで、何も見る事はできないのでは?という好奇心の貧乏性のような考えに捕われた。そして一瞬考え、僕はイエスと呟いて歩き出してしまっていた。

トラヴィスは出張で世界を飛び回り、特に治安の悪い地域(中南米など)には慣れていると豪語していた。僕は油断した訳ではなかったけれど、頼もしく感じ、トラヴィスと共に歩いた。露店などを眺めながら歩き始めると、ヨハネスブルグの街は単に街として機能していて、今まで僕が見てきた景色と何も変わらないもののように思えた。トラヴィスは奥さんに買う土産物を物色し、ドレスやら何やら大量に買い込んでいた。アメリカ人と歩いているという自覚が、もしかしたら僕の危険察知能力を鈍らせていたのかもしれない。
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結局、僕らは何事もなく市内の中心、カールトンセンタービルへと辿り着いた。敷地内には簡易的なモールが入っていて、ブティックなども並んでいた。僕とトラヴィスはチケットを買って、展望台へと昇った。ヨハネスブルグの街を一望できるその場所は、いやにすいていた。隣街プレトリアを眺め、建物が多く立ち並ぶ南アフリカの景観は、それでも街並の更に奥を見渡すと、どこまでも平地が続いていた。
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次のバスに乗ることを決めた僕たちは、少し待ち時間があったため、お茶でもしようか?とどちらからでもなく言い出した。これが全ての間違いだったとは思わずに・・・

次回、ついに襲われます。


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3b. 世界一周ノート 第33回:南アフリカ-その2


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
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3b. 世界一周ノート 第33回:南アフリカ-その2

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せっかくアフリカに来たのだから、やっぱりサファリには行きたいなと僕は思い、強行スケジュールを組んでビザのいらないジンバブエへの航空券をとった。この後の旅程から、世界三大瀑布が制覇できそうだったこともあって、ヴィクトリアフォールズの町へと僕は向かった。

空港は小さく、まさにアフリカ式の歓迎が待っていた。そして着いてすぐにATMに300$飲み込まれるというトラブルが起きた。銀行からの通知記録では引き落とされた300$が、見事に出てこなかった。とりあえず町の銀行へ出向き問い合わせると、僕の使っている銀行に直接言ってくれというなんとも不安な答えが帰ってきた。証書などはなく、「それで大丈夫」という行員の言葉を信じるしかない不安な僕は、とりあえず諦めて滝を見に出かけた(お金は帰国後に銀行に掛け合うとあっさり戻ってきた)。
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砂利道の脇の灌木地帯へと、頭にタライを乗せて消えていく人を横目に、僕はヴィクトリアフォールズの町を散歩した。日中だったので身の危険は感じず、お土産やツアーを売ろうとする人たちに声をかけられる程度だった。スーパーや商店にも顔を出したけれど、夜出歩かなければ、治安に不安は感じなかった。
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ヴィクトリアフォールズの安宿から申し込んだサファリは一日100$程度で、隣国のボツワナのチョベ国立公園で昼食付きだった。チョベ国立公園は草食動物を見るのに世界一適したサファリということで名が通っていた。目当てのライオンは見ることができなかったけれど、川を泳ぐ象やキリンを間近で見ると、なんだか満たされたような気がした。
この時アフリカ大陸はエボラ出血熱の流行が進んでいた時期で、国立公園への国境を越える際にチェックが行われた。と言っても、消毒スプレーを吹きかけられ、「具合どう?」と聞かれ、「大丈夫」と答えるだけの簡易的なものだった・・・
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結局、ジンバブエとボツワナでの滞在は3日間だったけれど、とても濃密な時間だった。アフリカに来た!と思えるような感覚に、強行日程を組んだことに満足していた。後は再び飛行機でヨハネスブルグに戻り、大人しく過ごして、念願のニューヨークへ。僕はそんなことを考えながらヴィクトリアフォールズを後にした。
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次回は調子に乗って行ってみた!ヨハネスブルグの街中、前編を記します。


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3b. 世界一周ノート 第32回:南アフリカ-その1


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
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3b. 世界一周ノート 第32回:南アフリカ-その1

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僕はアフリカ大陸での滞在期間が短く、どれだけ予定を詰め込めるかに頭を悩ませていた。そして、あれもこれもと画策するうちに、驚異的な過密スケジュールが組み上がってしまっていた。

南アフリカ・ヨハネスブルグ空港に着いた僕は、そのままトランジットでケープタウンへと飛んだ。どうしても喜望峰が見たかった。最南端とか、そういうフレーズに弱い僕はついつい無理をしてでも出向いてしまう悪癖があった。それが世界一治安の悪い南アフリカだとしても・・・
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深夜、比較的治安は良い(それでも悪い)と言われるケープタウンに着いた僕はタクシーで市内へと向かった。インフラは整えられ、美しいヨーロッパを思わせるような雰囲気すら感じた。
予約していた安宿に着いて、そこは洋館のような外観なのに、3重の鉄格子扉があった。それをインターフォンを連打してくぐり抜けて、ようやく黒人のガードマンの元に辿り着いた。そして事件が起きた。
予約がとれていなかった。そして宿は満室・・・僕は予約を1日後に勘違いしていた。

疲弊。ヨーロッパ後半から休みなく移動し続けてきた僕は深夜の南アフリカ、宿がない!そんな絶望に陥ってしまった。
何とか黒人のガードマンに泣きついてみるも、そのホテルに泊まることはできなかった。
それでも、ガードマンは優しく、一緒にホテルを探してくれると言った。困り果てていた僕が礼を言うと、彼は「一緒じゃなかったら死ぬから」と確かに言った。

僕は黒人の用心棒を引き連れて深夜のケープタウンを徘徊した。宿は中々見つからず、物乞いやプッシャーに時々声をかけられながら歩いた。雨も降っていた。ただ、ガードマンは顔が広く、深夜にも関わらず色々な人と挨拶をしていた。そして、ある一軒のバーの中にあるホテルを格安で見つけてくれた。ガードマンはバーテンによろしく言ってくれ、僕はバーテンからビールまでごちそうになった。ほろ酔いで、僕は命拾いしているのかな?と眠りについた。
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翌朝、僕は代理店に電話をかけて、飛び込みでケープタウンのツアーに参加し、喜望峰へも行くことができた。そこには治安の悪さをあまり感じさせない、普通の国の、雑多な観光ツアーの姿があった。バスで移動し、安いランチを食べて、知らない国の人と旅のことを話す、そして写真を撮る、そんな素晴らしいツアーだった。
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ただ、皆口を揃えて、ツアー以外の外出は控えていると言った。ケープタウンはまだ良いけれど、ヨハネスブルグは最悪だと。
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ツアーを終えて、僕はその夜にまたヨハネスブルグに戻った。そして翌朝、次の目的地、ジンバブエへと飛んだ。気付けばヨハネスブルグでの滞在は全部空港の中のカフェだった。体はもうヘトヘトに疲れきっていた。

次回はジンバブエ、ビクトリアフォールズとサファリ!を記します。


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