3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

Profile
aoki_s

青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

Facebook

第17回:オーストラリア・ワーキングホリデー -1

photo7

オーストラリアに着いた僕は、15$を支払って市内までの電車に乗った。知人を頼り、居候という形で潜り込んだ大都市シドニーの物価は「旅人」にとっては堪えがたいものだった。

親中国として著しい経済好況に沸くオーストラリア。街に溢れているのは自国ブランドと中華系企業の看板ばかりで、外食では1000円超えが当たり前の違和感に、アジア周遊を終えた僕は戸惑うばかりだった。前回、記したワーキングホリデー準備編での作業をこなし、僕は入国4日目にして仕事を始めることになった。
photo2

観光といえばオペラハウスを少し眺めたくらいで、後は新生活の準備に追われていた。それ程までにオーストラリアの物価は高く、貧乏旅行者には身動きのとれない場所だった。

時給11$、現金支給の日本食レストランは、違法な雇用形態の所謂ブラック企業だった。でも、それはシドニーでは当たり前のことだった。高騰する物価に雇用主も頭を抱え、そこで生き残るために人件費を少しでも削っていた。僕のようなにわかワーホリにとってはそれでも文句を言える環境ではなかった。この現実はシドニー全体を覆っていて、特にアジア系の働き口では常識となっていた。ワーキングホリデーは語学留学や社会経験を積む場所として機能する反面、こうやって煌めく街に集まった労働力を買い殺す側面を併せ持っていた。

だから僕たち難民は、ジムもプールもついた高層マンションとは名ばかりの、シェアハウスという監獄で雑多な人種に埋もれて暮らす必要があった。僕の監獄には12人が住んでいたし、蓋を開ければこのマンションの中は殆んど囚人たちで溢れかえっていた。それでも1週間120$という家賃には逆らえず、皆一様に「金」がなかった。そして囚人たちの間を巡った「金」が正規の賃金で働く「オーストラリア人」を潤わせ、少なからず好況に貢献していた。そして僕が見てきた囚人たちは誰一人その現状に気付いていなかった。
photo3

photo4

僕は旅の資金を稼ぐため、週6日間、1日12時間の労働に没頭していった。

レストランでの仕事はウェイターで、接客は英語だったけれど、職場では日本語が飛び交い、言語のストレスは皆無だった。1ヶ月も経てば同僚の顔ぶれは変わってしまい、ワーキングホリデーという労働力に支えられるレストランは生き物の様に流動した。だから社長が冗談混じりに「ビジネスビザを出そうか」と働き過ぎる僕に言うのも悲しいかな、頷けた。
photo9

そうやって繰り返す出会いと別れは旅にも似ていて、僕は一定の生活を掴んだシドニーでの生活でさえ、どこか旅を続けている錯覚に陥ることが度々あった。
一ヶ月の給料は3000$になった。レストランでの賄いにも助けられ、僕は順調に旅の資金を貯めることができた。高い物価にも慣れ、友人もできた。そしてつい長居をしてしまった。気付けば4ヶ月を僕はオーストラリアで過ごした。それは1年という旅の計画の首を絞める結果になってしまったけれど、後悔はない。
旅と生活。そのバランスは重要で、旅が成り立つのは生活があるからだと僕は思う。生活の傍らで開いたtabinoteが刺激的なのも、退屈な生活がそこにあるからだ。
photo8

ただ、僕はオーストラリアで刺激的な生活を手に入れた。27歳にしては遅すぎる僕の遊びは、少し贅沢過ぎたのかもしれない。

次回はオーストラリア・ワーキングホリデーの人間模様、大麻の流通について記します。


世界一周ノート
とりあえずの予定コース:上海→杭州→南寧→ベトナム→ハノイ→ホーチミン→カンボジア→チェンマイ→ラオス→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー…、以降インド、トルコ、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、南米と巡る予定

3b. 世界一周ノート 第17回:オーストラリア・ワーキングホリデー -1


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

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第17回:オーストラリア・ワーキングホリデー -1

photo7

オーストラリアに着いた僕は、15$を支払って市内までの電車に乗った。知人を頼り、居候という形で潜り込んだ大都市シドニーの物価は「旅人」にとっては堪えがたいものだった。

親中国として著しい経済好況に沸くオーストラリア。街に溢れているのは自国ブランドと中華系企業の看板ばかりで、外食では1000円超えが当たり前の違和感に、アジア周遊を終えた僕は戸惑うばかりだった。前回、記したワーキングホリデー準備編での作業をこなし、僕は入国4日目にして仕事を始めることになった。
photo2

観光といえばオペラハウスを少し眺めたくらいで、後は新生活の準備に追われていた。それ程までにオーストラリアの物価は高く、貧乏旅行者には身動きのとれない場所だった。

時給11$、現金支給の日本食レストランは、違法な雇用形態の所謂ブラック企業だった。でも、それはシドニーでは当たり前のことだった。高騰する物価に雇用主も頭を抱え、そこで生き残るために人件費を少しでも削っていた。僕のようなにわかワーホリにとってはそれでも文句を言える環境ではなかった。この現実はシドニー全体を覆っていて、特にアジア系の働き口では常識となっていた。ワーキングホリデーは語学留学や社会経験を積む場所として機能する反面、こうやって煌めく街に集まった労働力を買い殺す側面を併せ持っていた。

だから僕たち難民は、ジムもプールもついた高層マンションとは名ばかりの、シェアハウスという監獄で雑多な人種に埋もれて暮らす必要があった。僕の監獄には12人が住んでいたし、蓋を開ければこのマンションの中は殆んど囚人たちで溢れかえっていた。それでも1週間120$という家賃には逆らえず、皆一様に「金」がなかった。そして囚人たちの間を巡った「金」が正規の賃金で働く「オーストラリア人」を潤わせ、少なからず好況に貢献していた。そして僕が見てきた囚人たちは誰一人その現状に気付いていなかった。
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僕は旅の資金を稼ぐため、週6日間、1日12時間の労働に没頭していった。

レストランでの仕事はウェイターで、接客は英語だったけれど、職場では日本語が飛び交い、言語のストレスは皆無だった。1ヶ月も経てば同僚の顔ぶれは変わってしまい、ワーキングホリデーという労働力に支えられるレストランは生き物の様に流動した。だから社長が冗談混じりに「ビジネスビザを出そうか」と働き過ぎる僕に言うのも悲しいかな、頷けた。
photo9

そうやって繰り返す出会いと別れは旅にも似ていて、僕は一定の生活を掴んだシドニーでの生活でさえ、どこか旅を続けている錯覚に陥ることが度々あった。
一ヶ月の給料は3000$になった。レストランでの賄いにも助けられ、僕は順調に旅の資金を貯めることができた。高い物価にも慣れ、友人もできた。そしてつい長居をしてしまった。気付けば4ヶ月を僕はオーストラリアで過ごした。それは1年という旅の計画の首を絞める結果になってしまったけれど、後悔はない。
旅と生活。そのバランスは重要で、旅が成り立つのは生活があるからだと僕は思う。生活の傍らで開いたtabinoteが刺激的なのも、退屈な生活がそこにあるからだ。
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ただ、僕はオーストラリアで刺激的な生活を手に入れた。27歳にしては遅すぎる僕の遊びは、少し贅沢過ぎたのかもしれない。

次回はオーストラリア・ワーキングホリデーの人間模様、大麻の流通について記します。


世界一周ノート
とりあえずの予定コース:上海→杭州→南寧→ベトナム→ハノイ→ホーチミン→カンボジア→チェンマイ→ラオス→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー…、以降インド、トルコ、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、南米と巡る予定