3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

Profile
aoki_s

青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

Facebook

3b. 世界一周ノート 第40回:南米 その1

NYでの生活を経て、僕は最後の大陸、南米へと向かった。南米では残された時間が少なく、有名観光地ばかりを巡ることになった。
すっかり気温の下がった秋のNYを抜けて、僕はペルー、リマ空港にたどり着いた。マチュピチュ、ウユニ塩湖という王道観光を見据えた行程で、日本を出る時から決めていた母親と叔母と合流するというミッションが僕にはあった。強盗事件の後のバタバタもありながら、なんとかスケジュールを調整して僕は1年ぶりに母親とリマで再会した。
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空港のロビーで待ち合わせると、痩せ、薄汚れた僕に母親は驚いていた。僕たちはさっそくタクシーに乗り込んでリマのホテルへと向かった。ホテルは市内の、部屋にお風呂とトイレがあるタイプの部屋だった。バスタオルもあった。久しぶりの感覚に、僕は日本人らしさを僅かながら取り戻した気がした。バックパッカーという息苦しさが、果たして本当に必要なものなのかどうか、時々わからなくなっていた自分にとってはより考えさせられる瞬間だった。

翌日から僕たちはバスでナスカへと移動し、地上絵を見るためにセスナ機に乗ったり、目抜き通りのレストランで食事をしたりした。セスナ機に酔った母親が嘔吐するさまは可笑しく、誰かと一緒に過ごす時間と旅という豊かさが僕を安堵させた。あらゆる場所で値段交渉をする僕に母親は戸惑っていたけれど、1年で変わってしまった価値観はそのくらいのものだった。
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ナスカから今度はマチュピチュへ移動し、高山病に苦しめられ、強盗にも盗られなかったiPhoneをタクシーに忘れてきて失くしても、僕は笑っていた。お土産をたくさん買って、アルパカのステーキなんかを食べて過ごし、ふと見降ろした先のマチュピチュは達成感もあいまって美しく見えた。
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バックパッカーとしての経験やプライドをこの時に僕は捨てることができた。何でもみてやろう、という本来の目的を素直に受け入れることができた気がした。そう、僕はただの観光客なんだと、自分を楽観した。旅行者からは賛否両論のマチュピチュは、僕にとってセンチで思い出深い場所になった。

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次回、ウユニ塩湖からチチカカ湖、ラパス両替できない地獄を記します。


世界一周ノート
上海→杭州→南寧→ハノイ→ホーチミン→シェムリアプ→チェンマイ→ルアンパバーン→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー→チェンナイ→ムンバイ→アグラ→デリー→バラナシ→ブッダガヤ→コルカタ→ダージリン→ポカラ→ルンビニ→ガヤ→カトマンズ→ポカラ→イスタンブール→カッパドキア→パムッカレ→ボドラム→ギアテネ→メテオラ→ソフィア→ブタペスト→ザコパネ→クラクフ→サラエヴォ→ザグレブ→ヴェネチア→ローマ→ミラノ→バルセロナ→タンジェ→フェズ→マラケシュ→カサブランカ→カイロ→ギザ→アジスアベベ→ヨハネスブルグ→ケープタウン→ドバイ→ニューヨーク→リマ→ナスカ→マチュピチュ・・・

3b. 世界一周ノート 第40回:南米 その1


3b. 世界一周ノート 青木大地

仕事をやめ、2013年10月から1年間の予定で世界一周の旅に出ました。

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青木大地(あおき・だいち)

1986年生まれ。日本大学 芸術学部 卒業。
卒業後、大手レンタルビデオメーカーに勤務。店舗、営業を経て世界旅行のため退社。
念願のフリーライターとしてとりあえず1年は過ごせそうです。
同名義のFacebookもよければ見てください。

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3b. 世界一周ノート 第40回:南米 その1

NYでの生活を経て、僕は最後の大陸、南米へと向かった。南米では残された時間が少なく、有名観光地ばかりを巡ることになった。
すっかり気温の下がった秋のNYを抜けて、僕はペルー、リマ空港にたどり着いた。マチュピチュ、ウユニ塩湖という王道観光を見据えた行程で、日本を出る時から決めていた母親と叔母と合流するというミッションが僕にはあった。強盗事件の後のバタバタもありながら、なんとかスケジュールを調整して僕は1年ぶりに母親とリマで再会した。
2.jpg

空港のロビーで待ち合わせると、痩せ、薄汚れた僕に母親は驚いていた。僕たちはさっそくタクシーに乗り込んでリマのホテルへと向かった。ホテルは市内の、部屋にお風呂とトイレがあるタイプの部屋だった。バスタオルもあった。久しぶりの感覚に、僕は日本人らしさを僅かながら取り戻した気がした。バックパッカーという息苦しさが、果たして本当に必要なものなのかどうか、時々わからなくなっていた自分にとってはより考えさせられる瞬間だった。

翌日から僕たちはバスでナスカへと移動し、地上絵を見るためにセスナ機に乗ったり、目抜き通りのレストランで食事をしたりした。セスナ機に酔った母親が嘔吐するさまは可笑しく、誰かと一緒に過ごす時間と旅という豊かさが僕を安堵させた。あらゆる場所で値段交渉をする僕に母親は戸惑っていたけれど、1年で変わってしまった価値観はそのくらいのものだった。
3.jpg

ナスカから今度はマチュピチュへ移動し、高山病に苦しめられ、強盗にも盗られなかったiPhoneをタクシーに忘れてきて失くしても、僕は笑っていた。お土産をたくさん買って、アルパカのステーキなんかを食べて過ごし、ふと見降ろした先のマチュピチュは達成感もあいまって美しく見えた。
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5.jpg

バックパッカーとしての経験やプライドをこの時に僕は捨てることができた。何でもみてやろう、という本来の目的を素直に受け入れることができた気がした。そう、僕はただの観光客なんだと、自分を楽観した。旅行者からは賛否両論のマチュピチュは、僕にとってセンチで思い出深い場所になった。

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次回、ウユニ塩湖からチチカカ湖、ラパス両替できない地獄を記します。


世界一周ノート
上海→杭州→南寧→ハノイ→ホーチミン→シェムリアプ→チェンマイ→ルアンパバーン→バンコク→パンガン島→ペナン島→マラッカ→スマトラ島→ジャワ島→マニラ→シンガポール→ジョホールバル→シドニー→チェンナイ→ムンバイ→アグラ→デリー→バラナシ→ブッダガヤ→コルカタ→ダージリン→ポカラ→ルンビニ→ガヤ→カトマンズ→ポカラ→イスタンブール→カッパドキア→パムッカレ→ボドラム→ギアテネ→メテオラ→ソフィア→ブタペスト→ザコパネ→クラクフ→サラエヴォ→ザグレブ→ヴェネチア→ローマ→ミラノ→バルセロナ→タンジェ→フェズ→マラケシュ→カサブランカ→カイロ→ギザ→アジスアベベ→ヨハネスブルグ→ケープタウン→ドバイ→ニューヨーク→リマ→ナスカ→マチュピチュ・・・